Saving Graces

by Elizabeth Edwards


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2007年秋からの新しい読書会テキストとして選ばれたのは、2004年にケリー大統領候補と組んで民主党副大統領候補となるも、共和党のブッシュ・チェイニー組に破れた、ジョン・エドワーズ元上院議員の夫人で、夫と同様に自身も法律家としての経歴を持つ、エリザベス・エドワーズによるエッセイ「Saving Graces」です。
2007年8月に発売されたこの本は、エドワーズ氏が2008年に大統領候補としての出馬を表明した事もあって、たいへん話題になっているようです。

ただ、私たちがこの本を読んでみたいと思ったのは、ニュース英語教材学習のために時事的な話題を選んだというよりも、生の声で書かれた同年代の女性(まぁメンバーの年齢層もいろいろですが、おおざっぱに:笑)の半生が、国籍や職業を超えて共感を呼ぶのではないかという期待、また、著者の父が海軍軍人で日本に駐在していた時期が長く、「Zama」「Iwakuni」などの章に著者の少女時代が描かれていることへの興味も大きかったということでしょうか。

タイトルの Saving Grace(s) という言葉は、日本人にはちょっとピンと来ないフレーズなのですが、「欠点を補う長所・取柄」「(欠点の中の)唯一の救い」「(of God をつけて)神の加護」などの意味を持つらしく、同じタイトルの別の本や映画もあります。

政治家の妻として・子供たちの母としての多忙な日々、そして、長男の交通事故死・高齢出産・乳ガンとの闘いなど、次々と降りかかる試練に、前向きな精神と、強い家族・友人たちとの絆で立ち向かっていく経緯が、率直な飾らない言葉で書かれているこの本を通じて、きっと、典型的なアメリカン・スピリットに触れることが出来ると思います。

 

◆主な登場人物(2004-2007)◆

Elizabeth Edwards: この本の著者(=私)。軍人の父の転勤に伴い、米国・日本の基地を転々とした子供時代を経て米国で高校・大学生活を送り、ロースクール時代に知り合ったジョン・エドワーズと結婚する。

John Edwards: 著者の夫、弁護士からノースカロライナ州上院議員選に新人ながら当選を果たし、2004大統領選民主党予備選に出馬後、ケリー大統領候補のパートナーとして副大統領候補に

Wade: 著者たちの長男、高校3年の時に自動車事故で死亡

Cate: 著者たちの長女、Wadeの3歳下の妹。ノースカロライナで高校生活を送った後プリンストン大学へ進学、学業のかたわら、父の選挙選で活動する。

Emma Claire: 著者たちの次女(Wadeが事故死した後に産まれる)

Jack (John Atticus Edwards): 著者たちの次男。Emma Claire の後に産まれた末っ子

John Kerry: マサチューセッツ州選出上院議員、2004年大統領選民主党候補

Teresa Kerry: ケリー夫人

Peter Scher: ジョンのキャンペーンスタッフチーフ

Hargrave McElroy: 著者の長年の親友で、キャンペーンスタッフとして遊説に随行( Chapter 1 参照 )

Karen Finney: 著者のプレス担当秘書

Ryan Montoya:  著者の遊説スケジュール担当スタッフ

Kathleen McGlynn: ワシントンDCに詰めているスケジュール担当スタッフ

Barbara Smith: ボストン、マサチューセッツ・ジェネラル病院の女医

Cliff Hudis: NYのメモリアル・スローン・ケタリング癌センターの医師

Bob Warren: ジョージタウン大学病院の医師

Susan Ascher: MRI担当の女医

Vicki Kennedy: エドワード・ケネディ上院議員の夫人

Alan Rabson: 国立癌研究所の副所長

Anne O'Connor: 化学療法担当の女医

Mercedes Watson: 化学療法担当の看護師

Kevin: 著者のかかりつけの美容師

Trevor: 長女ケイトのボーイフレンド、ジョージタウン大学の医学生

Randy Galvin and Heather North: 作者の闘病中に子供たちの世話をしてくれたベビーシッター

Nancy Olson: 地元ローリーの書店主、著者の友人

Lisa Carey: 腫瘍専門医

JoAnn Belanger: 看護師、patient service manager

 

November 10, 2009

p.287 〜 p.292

乳癌の宣告を受ける女性は、8人にひとりという高率だという。しかし、だからといってこの宣告を平気で聞くことが出来るということにはならない。
私がこの宣告を受けたのは、選挙の翌日2004年11月3日、夫ジョンと娘のケイトと共に訪れた、ボストンのマサチューセッツ(マス)・ジェネラル病院でのことだった。

この日の朝、私たち3人は、SUVに乗ってケリー候補が演説を行うファニエル・ホールへ向かった。車を迎えてくれた支援者たちの歓迎ぶりは、私たちが選挙戦に勝ったほうなのかと錯覚するくらい熱狂的だった。
ケリー候補に先立ってジョンがスピーチをしたが、彼は、敗北とか撤退という言葉は一切使わず、希望がいかに大切なものかということを聴衆に伝えた。

ケリー氏の敗北宣言で大統領選挙の闘いは終わったが、私たちは、次なる闘い――癌との闘いに向かった。
マス・ジェネラル病院で、後に私の執刀医となったバーバラ・スミス医師に初めて会った。私はこの、物静かで知的な女医に、一瞬で信頼感を持った。
スミス医師は、針で微小な組織を取り、それを検査している間、私はジョンとケイトと一緒に身を寄せ合って待っていた。
ケイトの顔は涙に濡れており、私は、兄の死以来大きな悲しみに耐えてきたこの子に、さらにまた打撃を与えることについて、深く思いやった。私の娘はこれまでにもう充分な試練を受けてきました、どうかそっとしておいてやって下さいと神に祈りたい気持ちだった。

しかし、ついに、乳癌であるという結果をスミス医師から告げられた時、私たちはむしろ明るくなっていた。それは闘う相手がはっきりとしたせいかもしれないし、息子のウェイドの死という悲劇を体験した私たちにとって、癌の宣告などは悲劇のうちに入らなかったからかもしれない。私たちは笑ったり、お互いにからかい合ったりさえしていた。
ところが、さらなる打撃が待っていた。CTスキャンの結果、肝臓に"異常"が見つかり、癌の転移の可能性が出てきた。転移している可能性は3分の1だという。さすがの私たちも、笑顔をなくして病院を後にした。


◆ボストンのファニエル・ホール ( Faneuil Hall ) は、街の中心部に位置する歴史的建造物で、1740年に市場として建てられ、その後集会場として、サミュエル・アダムズやジェームズ・オティスなど独立派の有力者たちが演説を行った。
ファニエル・ホールの名は、建設費用を出資した、地元の豪商ピーター・ファニエルにちなんだもの。
銀細工師シェム・ブラウンが制作した、屋根の上の風見は、バッタ ( grasshopper ) の形をしており、独立戦争の時に兵士たちが「ファニエル・ホールのトップには何がいるか?」と聞いてgrasshopperと正しく答えられない者は英国軍のスパイと見なしたという言い伝えがある。

mass general 病院のホームページに、Find a Doctor というリンクがあり、著者の診断をしたバーバラ・スミス医師の写真も見ることができます。

 

November 17, 2009

p.292 〜 p.295

翌11月4日木曜日の朝になった。シークレットサービスの人々はまだいたが、私たちは、もう仰々しい自動車行列でなく、自分で子供たちを学校に連れていくと言った。
ジャックは「今度はいつ来るの?」とシークレットサービスに聞いていた。選挙が終わったのでもう彼らは来ないことを知ると、彼は「Oh」と言ってハグをした。
どちらのほうが、より別れを悲しんでいたのだろうか?

乳癌の上に転移の危険性まであるという、癌との長い闘いが私たちの行く手に待っていたが、私はむしろ、選挙が終わるまでずっと秘密にしていなければならなかった重荷が取れて、ほっとしたと同時に、力が抜けてしまったようだった。癌との闘いよりも、秘密にしておくという事のほうに全てのエネルギーを使っていたのかもしれない。
しかしジョンのほうは、負けて力を落とす様子も見せず、相変わらずあちこちに電話をしたり、大車輪の活動を続けていた。この時の私が最も必要としていたのは、そのようなオプティミズムの力だった。
結婚以来、私たちはずっと、お互いに助け合ってきた。シーソーのように、彼が上がれば私が下がり、私が上がれば彼が下がるという具合だった。
私が全力で彼の選挙戦をサポートした後、私の癌との闘いに夫が力を貸してくれるのは、当然のこととして受けるつもりだった。しかし、私は、これがフェアでないような気もしていた。選挙に関しては、夫も私も、自分たちがそれを選んで関わった闘いであり、私にとっても得るものが大きかったけれど、癌との闘いは、誰も望んだものではなかった。だから夫に貧乏くじを引かせたような気持がどこかにあったのだ。

転移の可能性については、複数の医師の意見を聞いた。
ニューヨークのメモリアル・スローン・ケタリング癌センターのドクター・クリフ・ハディスは、歯に衣を着せずにはっきりと言うけれども決してネガティブではないというタイプの医師だったが、彼によれば、やはり肝臓に異常な点が見られるということだった。
また、マス・ジェネラルのスミス医師から紹介されていた、同じワシントンのジョージタウン大学病院のドクター・ボブ・ウォレンにも会い、肝臓のMRIを受けることになった。それによって、"異常"が、良性の腫瘍か悪性のものか判断できるという。可能性としては、2:1で良性のほうが大きいらしいが、不安は消えない。
MRIの担当はスーザン・アッシャーという女性医師だった。マス・ジェネラルのスミス医師といい、美人の女性医師がぞろぞろ出てくるテレビドラマの中にいるような気分がした。
MRIでは、色素を注入し、問題の部分が色素に染まれば良性、染まらなければ癌細胞だという結果になる。MRI画像をチェックするアッシャー医師の表情にずっと注目していたジョンは、彼女の顔がほっと安心したことにいちはやく気づいた。
こうして幸いにも、肝臓の転移に関しては一安心となったが、すべての検査の結果が出るのは、まだ先のことだった。

 

November 24, 2009

p.295 〜 p.299

治療にあたってくれる医師たちの宝庫ともいうべき、さまざまの乳癌検査や療法は、これまでに乳癌と闘ってきた多くの無名の女性たちの勇気と決断によって蓄積されてきたものだということを私は感じた。彼女たちに報いることは、私もまた患者の一人として勇気をもってあたることしか無いだろう。
これは、墓地でウェイドと共に眠る子供たちの母親たちのために、自分に出来ることをしようと思った時の気持ちと同じものでもあった。

一連の検査の最後に骨のスキャンも行われた。もしかして骨癌の可能性もあるということか?
スキャンの結果、左の肋骨に何かがあるかもしれないという。
ウォレン医師は、ハディス医師のセカンドオピニオンを聞くように勧めてくれた。ハディス医師は全く何でもないと断言した。これこそが私たちの待っていた言葉で、最初からこの言葉だけ聞いていれば、不安を感じることもなかったのに・・・

ケリー夫人を始め知人たちも、自分たちの経験からいろいろな病院を紹介してくれたり、治療法を勧めてくれたりしたが、情報が多いのは有難いことよりはむしろ、不安と混乱を招くことが多かった。それに気づいたジョンは、情報を彼のところで止めて、私を不安からプロテクトするようにした。それでようやく私は、気分的に落ち着くことが出来るようになった。

私は出来るだけ早く治療を始めたかったので、9日火曜日から早速、化学療法を始めてもらうことにした。投票日からちょうど1週間後だ。だから、6-7日の週末は、選挙選終了後初の、そして癌との闘い前の最後の、週末となったわけだった。私たちは、何人かのスタッフを家に招き、フットボールを見たり、バスケットボールをしたりして過ごした。
出来るだけ病気のことは考えないで過ごしたかったが、友人たちはそれぞれに治療の成功を祈る言葉を口にするので、忘れるというわけにもいかなかった。


◆情報をくれた知人たちの一人として、先日死去したエドワード・ケネディ上院議員の夫人が登場しますが、このヴィッキー夫人は2番目の夫人で、JFKやロバート・ケネディの夫人たちと共にマスコミに登場していたジョーン夫人との離婚後、再婚した相手です。
ちょうど「TIMEを読む会」(ALPHAリンク集参照)で、E.ケネディの追悼記事を読んだばかりですが、チャパキディック事件の後遺症や、飲酒・女性問題関連のスキャンダルで彼がどん底にあった時に、昔研修生として上院の彼のオフィスにいたヴィッキーと出会い、お互いに再婚同士で結ばれたこと、この再婚が彼の立ち直りに大きな力となったことなどが書かれていました。
"Kennedy pulled back from that blink. In the summer of the same year, a decade after his divorce from Joan, Kennedy re-encountered Victoria Reggie, a 37-year-old lawyer and gun-safety advocate who had briefly been an intern in his Senate office. Now she lived in Washington with her two children from a previous marriage. Soon they were dating, and a year later, they were married. The new marriage transformed Kennedy, giving him a feeling of contentment and stability he had not enjoyed for years. It was a newly energized Kennedy who moved on to the legislative accomplishments of the '90s, like the Family and Medical Leave Act."

 

December 8, 2009

p.299 〜 p.304

化学療法は、15週間にわたり、8回行われた。担当の看護師はメルセデスという若く背の高い可愛い女性で、8回のセッションそれぞれに違ったヘアスタイルで現れた。癌の治療は、家族ぐるみでの闘いが必要となるが、そういう意味では、メルセデスは完全に私たちの家族の一員といえた。
彼女は治療の間中、ずっと私の傍にいて、どのような治療をするか、それによってどのような気分になるかを詳しく説明してくれた。そしてそればかりでなく、自分の家族のこと、子供たちとクリスマスの準備をすることなども話してくれたので、私たちは患者と看護師という関係を忘れて、PTAの会合でおしゃべりする母親どうしのように打ち解け合った。

化学療法につきものの副作用――爪の変色・吐き気・口の渇き・発疹などに対しては、私は戦士として闘うつもりでいた。
髪の毛が抜け落ちる前に、先に刈ってしまおうとしたのもその一つだった。あと1週間くらいしたら髪が抜け始めるという頃に、私は美容師のケヴィンに来てもらって、頭を剃ってもらい、鬘を買うのも手伝ってもらった。
ジョンとジャックは、自分たちもケヴィンに頭を剃ってもらうと申し出たが、家族の中に bald people が多数いても私の気分が晴れるわけではないと言って思いとどまらせた。

白血球増加のために投与されるノイポジンの副作用はとくに辛いものだった。関節痛のため歩行も困難になり、字を書くことも難しくなった。エマ・クレアやジャックにも、座って本を読みきかせるのがやっとだったが、子供たちは私の状況をよくわかってくれていた。また、私の代わりに子供たちと遊んでくれるベビーシッターや、スケジュールの調整をしてくれたり、家事や運転をしてくれたりするスタッフたちもいた。もちろん、ジョンの存在は最大の助けであった。
ジョージタウン病院の待合室で、私と同じように化学療法を受けているらしい、髪の抜けた頭をニット帽子で包んだ女性が、幼い子供2人を連れているのを見た時、私は自分が恵まれた状況にいることを思い、そのことに罪悪感も感じた。生活に追われるシングルマザーなど本当に病気の時の支援が必要な層にとって、現在の医療保険がカバー出来る範囲や、保険を受けるための煩雑な手続きなど、さまざまな問題があることは、選挙戦の時に私たちも常に話し合っていたことであるが、改めてそれを考えさせられた。

 

December 15, 2009

p.304 〜 p.309

化学療法の後半4回には、抗癌剤タキソールが使われた。この副作用も強いもので、体力がすっかり消耗された。夜、子供たちが寝るときに子供部屋に行くことも出来ず、逆に子供たちが私のベッドにおやすみなさいを言いに来てくれた。

2005年2月15日に予定された化学療法は終了した。看護師のメルセデスが友人に焼いてもらったケーキと私たちが用意したクッキーや花束で、私たちは happy goodbye をした。

全国各地から、お見舞いの手紙やメールが何万通も寄せられていた。私はすべて自分でサインし一言書き添えて返事を書くことを決意していた。それは結局あまりにも長い間かかり、印刷した日付と送付が大幅にずれたり、紙が変色したりしてしまったのだが、私は自分自身での返信にこだわった。
私自身は、自分の癌を発見するのが遅れてしまったわけだが、それを多くの人々に知ってもらうことにより、一人でも多くの人が健診を受けて出来るだけ早い時期に癌を発見してもらうこと、それが私の願いだった。

 

January 12, 2010

p.309 〜 p.312

お見舞いの手紙やメールは、選挙の終了後に私の癌のことが公表されたとたんに、全国から寄せられた。私たちの地元ノースカロライナからはもちろん、都会から、農場から、修道女から、刑務所の受刑者から・・・ありとあらゆる人々からだった。共和党支持者グループからも来た。
一度も会ったことのない人々からのこれらの手紙は、私個人にというよりも、苦しみを抱えた一人の女性への共感があふれたもの、長年自分の心に抱いてきた思いを、この機会に書かずにいられないというようなものばかりだった。
ノートを破った紙に鉛筆で走り書きされた、このような手紙を読んで、私もそれに答えたいという思いでいっぱいになった。
私の返事を受け取って感激し、さらに二通目三通目と送ってくれる人も多かった。

そんな手紙の中で、とくに私を励ましてくれるものは、自分もまた癌と戦った経験がある、または戦っている最中だという "survivor letters" であった。
絶対に癌に勝つという固い決意を書き記して送ってくれた人、水泳などの運動がよいと勧めてくれる人、髪の毛が抜けたらディック・チェイニーに似てしまったとこぼしている人、かつらを医療品として申告すれば保険が下りると教えてくれる人、貴女と誕生日が同じですと書いてくれた人、自分の母が癌になった経験からケイトのことを気遣ってくれる人・・・ジョン宛てに「奥様のために毎晩祈ります」と書いてくれる人もいた。

 

January 19, 2010

p.312 〜 p.319

引き続き、さまざまな人々からの励まし・お見舞いの便りを紹介する。

私と同じく軍人の娘として育ち「これまでも人生のさまざまな難関を乗り越えてきたのだから、必ず良い結果になると信じている」と書いてくれた人。
ジョンの選挙キャンペーンの合言葉であった「行く手には希望がある」を引用して励ましてくれた人。
チョコレート菓子M&Mの大きさの癌が見つかってから、M&Mを違う目で見るようになったという人。
子供たちの前では涙を見せないようにして、シャワーを使う時にこっそく泣くという人。
ほとんど付き合いのなかった近所の人が、40年前に自分と同じ癌を経験したということから、抱き合って泣いたという人。
自分のような弱虫でも、化学療法を頑張ってやってこれたので、貴女も必ず出来ると励ましてくれる人。
脳腫瘍との闘病中の友人がいて、「脳腫瘍患者というくくりで自分を見ないでほしい。病気は自分の中のほんの一部の部分であり、家族や趣味や個性を持った私という人間として見てほしい。」というその友人の言葉を伝えてきた人。
私たちの郷里ローリーの住民で、「あなたの子供たちのためにバイオリンを弾きに行ってあげたい」と書いてくれた人。
私と同じ日に同じ乳癌と診断され、「今は乳癌などありふれた病気で心配ない」と書いてくれた人。
障害児を持っている上に自分が乳癌と診断されたが、「手遅れにならないうちに癌が発見されたことを神に感謝し、いつも神が自分の闘いを支援して下さっていると信じている」という人。
小学生の娘のクラス担任が癌になり、そのことを公表しないでいたが、私が自分の乳癌を公表したことをきっかけに、隠さないと決意して自分のクラスの生徒たちに伝え、生徒たちは "wonderful" であったという人。
癌撲滅の運動をしていて、オハイオでの選挙キャンペーン中に私とハグしてから、特別な絆を感じているという人。
乳癌を体験したが、癌になる前の人生よりも、今の人生のほうが良いと感じていると書いてくれた人。
副作用で頭髪を失っても、「シャンプーの費用が助かる」とポジティヴに考えているという人。(我が家の場合、ジョンのシャンプー代はかかるのだけど・・・)
喉頭癌の治療をしていた父が、「癌病院の待合室は、自分がこれまでに訪れたローマやアシジやカンタベリーなどの聖地よりもさらに spiritual である」と言っていたと伝えてくれる人。
「生き方には二通りある、奇跡のようなものは何もないとする生き方と、すべてが奇跡だとする生き方」と書いてくれた人。
「メアリー・ベス」という懐かしい呼び名で書いてくれた昔の同級生。
エマーソンやプルーストの作品から引用した言葉を贈ってくれた人々。

世界各地からの、多種多様な人々からの声の中で、私が最も感銘を受けたのは、子供を失った経験があり、癌を克服したという人たちの便りだった。私と同じように事故で子供を亡くした人、また、子供も癌で死亡したという人もいた。
やはり車の事故で息子を亡くした女性は、「辛い日々ですが、笑うことは大好きです。息子も笑うのが大好きでした。彼はすごくひょうきん者だったんです!」と書いてきた。この「!」一文字の中のあふれる思いが、私はよくわかった。

 

January 26, 2010

p.319 〜 p.324

苦痛や悲しみに打ちひしがれそうになる時に思い出す「からしの種」にまつわる中国の寓話がある。
息子を亡くした悲しみに耐えられない母親が、死んだ息子を抱いて寺へ行き、僧侶に、息子の生命を取り戻してほしいと訴える。僧侶は「村中の家を回って、からしの種を集めてくるように」と彼女に言う。ただし「からしの種は、悲しみの無い家からでなければ受け取ってはいけない」。彼女は息子を抱いて村の家々を回るが、からしの種のある家は多くても、悲しみの無い家は一軒もなかった。ついに母親は、人間が生きている限り悲しみから逃れるすべはないことを悟り、息子の遺体を地に横たえた。
家々を巡り、どの家にも悲しみがあることを学んだこの母親は、私自身であった。そして私に手紙をくれる人々は、見知らぬ人々ではなく、共に同じ道を行く仲間であった。

手紙と共に数々のお見舞いの品も頂いたが、その中で特別なギフトは次の2つだった。
ひとつは、法科大学時代の友人夫妻から、ジョン・パウロ2世ローマ教皇直伝のロザリオ(今も私のベッドサイドにある)。
そしてもう一つは、ジョンが設定してくれた、「エリザベスのための祈り」と題するWEB掲示板だった。

見知らぬ人々からばかりでなく、政界の私たちの周囲からも、もちろんたくさんの励ましがあった。
「私は共和党員ですが」とか、「選挙では票を入れませんでしたが」という書き出しに始まりながら、闘病の成功を願い、祈りを送るというものも多くあった。

ジョンは自分の時間のほとんどを私のケアのために使っていたが、彼の周囲ではすでに、4年後を視野に入れた動きが始まっており、スタッフたちが次々と集まってきていた。


◆作者が紹介している「中国の寓話」は、「からし種」が「芥子」で、「悲しみ」が「死(葬儀)」である「キサーゴータミーの説話」のことのようです。
「サーバッティという町にキサーゴータミーという若い母親がおり、彼女がお釈迦様のところに来て『自分の幼い息子が死んでしまった。この子を何とか生き返らせてください』と泣く。お釈迦様が『ならば私が生き返らせてあげましょう。その代わりケシの実を3つ集めてきなさい。この村の中で死人が一人も出ていなかった家があるならそこからケシの実を一つ。次の家からもケシの実を一つ。3つ集めてきたらその子を生き返らせてあげましょう』という。ところがどこの家に行っても死人の出ていない家はなく、ケシの実を集められなかった。こうして子を亡くした女性も人間の死はどうしても避けられないものだということを理解した。」

◆からしの種はエジプト時代から香辛料や薬草、あるいは防腐剤としても使われた。
聖書や西洋文学では、最小の単位、最も小さいものをあらわし、そこから大きな成果が育つことの喩えとして好んで使われる。「天国は、一粒のからし種のようなものである。ある人がそれをとって畑にまくと、それはどんな種よりも小さいが、成長すると、野菜の中でいちばん大きくなり、空の鳥がきて、その枝に宿るほどの木になる」という記述が、マタイ伝・マルコ伝・ルカ伝などに見られる。
このようなことから、キリスト教文化圏では「からし種」は、信仰心や真理をあらわす宗教的な言葉としても使われる。 また、西洋諸国では一般に、小型の豆本タイプの聖書を「からし種」(独: Senfkorn 英: mustard seed)と通称している。

 

February 2, 2010

p.324 〜 p.333

化学療法の予定は2月で終わり、3月7日に、最初に診察を受けたボストンのマサチューセッツ・ジェネラル病院で、バーバラ・スミス医師の執刀により手術をすることになっていた。
ところが、その前日は、ジョンと私の母校であるノースカロライナ州立大学対デューク大学のバスケットボールの試合の日だった。私はジョンにぜひ試合の観戦に行ってほしいと頼んだ。ジョンはしぶったが、私は「私の代わりに応援してきて。ケイトと私はホテルのテレビで応援するから。」と言い張った。
私はワシントンから、ケイトはNYからそれぞれボストンに向かうことにしていたが、スタッフの組んでくれたスケジュールを見ると、試合の始まる時間がちょうど飛行機の中ということになっていた。とんでもない!私はフライトの時間を急遽変更してもらい、試合開始に間に合うようにボストンのホテルに入り、ケイトやスタッフと共にテレビの前に陣取った。
せっかく眺めのよい部屋を取ってもらったのに、私たちは窓の外など一瞥もせず、テレビの画面に釘付けになっていた。
試合はデューク大学に9点も先取され、不利な状況が続いたが、後半急に持ち直し、逆転勝利した。私たちは歓声を上げて喜び合った。明日の手術に際して、またとない吉兆というものであった。

翌朝早く、私は手術のために病院に入った。これまでの診察や化学療法は、ほとんど私一人で、他の患者に会うことはめったになかったが、ここは大病院でベッドの列が続き、どのベッドも満員だった。私は、一つ一つのベッドに、病気によって変わってしまった人生のあることを思い、これらのベッドの主たちがその試練に耐え、勝利することを願った。
手術そのものに関しては、麻酔が始まるとすぐに記憶をなくしてしまったため、何も覚えていない。気がついたときには個室にいて、傍らに本を読んでいるジョンと、ケイトがいた。
スミス医師が、悪性の部分はすべて除去し、手術が無事に終わったと伝えてくれた。

退院した私は、早く日常生活に戻り、留守中に子供たちの面倒をみてくれたベビーシッターに休んでもらいたいと思ったが、そういうわけにいかなかった。手術後の排液がうまく行かずに、ドレーンを続けなければならなかったからだ。ニューヨークのクリフ・ハディス医師に聞いてみると、それは不快ではあるが、心配な問題ではないということだった。闘病中に体験したいろいろな副作用に比べると、これはまだましなほうかもしれなかった。

放射線治療も、平日は毎日続けなければならなかった。私は6時半に家を出て病院に行き、巨大なボールペンの先のようなマシンの下に寝て治療を受けた。その間、ジョンが子供たちの朝食を作り、治療が長引かなければ、子供たちが学校に行く前に帰宅することが出来た。
早朝の病院にいつも、私より早く来ている、ドイツ訛りのある男性がいて、雑誌を貸し借りしたり、話をしたりした。彼の名前も病名も聞くことはなかったが、それは重要なことではなかった。私たちは同じ道を歩いているということが重要なのだった。
治療が終わりに近くなったころ、私の病院通いに変化が起きた。他の患者がこっそり私の写真を撮り、ブログに載せているらしいことがわかり、待合室を利用せず、看護師のエスコートで人目を避けて治療室へ行き来するようになった。
私は、髪の毛を失っているからとか、時間を節約するため着替えやすいスエット姿でいるからとかの理由で、写真を撮られることを拒否するつもりはなかったけれど、こうしたトラブルで、せっかく名も知らぬまま親しくなれたドイツ訛りの友人と過ごす時間が奪われたことに怒りを感じた。

5月の終わりに、私の治療スケジュールも一応の完了をみた。そしてそれは、私たちがワシントン生活を終えて、ノースカロライナへ戻る時でもあった。

 

February 9, 2010

p.333 〜 p.341

ノースカロライナへ送る荷造りの中には、友人や支援者を始め、見知らぬ多くの人々からのお見舞いの品々も入っていたが、その中でも、シンガーソングライターのクリスティンが贈ってくれたスカーフは素晴らしいものだった。
スカーフなら私も美しいものをたくさん持っているが、これは、シンガーであると同時に編み物作家でもあるクリスティンが、コンサートの前に聴衆たちと共に共同で編み上げてくれたものなのだ。名前も顔も知らない、おおぜいの人々の気持ちが、文字通り暖かく私の身を包んでくれるのだった。
ほんのちょっとだけ、他の人へ手を差し伸べること、誰かのことを考えているという意思表示をすること、それがどんな大きな力につながるかという事を知る人は少ないようだ。

3月に、私の父方の姪のジョーダンが、長い付合いのボーイフレンド、ケンと結婚式をあげ、アナニア家の一族がフロリダ州サラソータに集まって、カップルを祝福した。
ウェイドが亡くなってから、もう10年になるのだった。2月のバレンタインデーには、天国のウェイドに届くようにと、たくさんの風船を空に飛ばした。これは私のアイデアではなく、エマ・クレアとジャックの思いつきだった。下の2人の子供たちにとって、ウェイドは会ったことはなくても、いつも一緒に生きているかのように話題にのぼる親しい兄だった。ジャックの手のひらにあるソバカスを見つけ、「ウェイド兄さんが、自分のほっぺたから一つ取ってくれたのよ」と言うように。
私たちも、そんな形でのウェイドの家族の中での位置を受け入れつつあるようだった。
エマ・クレアとジャックがふざけあっている姿を見て、ケイトはそっと尋ねた。「私たちも、あの子たちの年にはあんな感じだった?」
「ほんとにあの通りだったわ」と私は答えた。

ノースカロライナでの落ち着いた生活が始まった。子供たちの学校、バスケットボール、サッカー、野球。ケイトもニューヨークの仕事をやめて、ここで法科大学に通い始めた。
癌もすっかり消えたようだった。私はこれまでの生活を振り返って手記を書く仕事にとりかかった。書きながら、私を支え励ましてくれた多くの人々が、ここに私の部屋の中に一緒にいるように感じていた。

ところが、私たちを待ち受ける現実は、決して甘くはなかったのだった。新たな試練が私たちを襲ったのは、2007年春のことだった。


◆ Christine Lavin
http://en.wikipedia.org/wiki/Christine_Lavin
Official Christine Lavin site

 

February 16, 2010

p.341 〜 p.345

私はその夜ベッドの中で、夜遅く帰宅したジョンが、バッグをおろし、シャワーを浴び、おやすみのキスをしに子供部屋に行く物音を聞いていた。30年来聞きなれてきた物音だった。寝室に入ってきたジョンは、私が眠っていないのを知ると「背中の具合はどう?」と聞いた。
実は私は前日に、倉庫の奥にある箪笥を持ち上げようとして、背中の筋肉を痛めていた。病後の立場としては、決して無理をしてはいけないことはよくわかっていたが、忙しいジョンが帰ってくる時までに、少しでも家の中を片付けておきたい気持ちが先走ってしまったのだった。昨年夏にも同じようなことがあり、今度もそれだと私はごく軽く考えていた。
本当はまだ痛かったのだが、「たいしたことはないわ」と私は答えて、ジョンが隣に入ってくるのを迎えようとした。その瞬間のa pop or a crack ! 今も忘れられない音と衝撃が私を襲った。
翌日のレントゲンの結果、左の肋骨にひびが入っているという診断が出たが、反対側に something suspicious が見られるので、骨のスキャンをするようにと言われた。
ジョンはアイオワでハウスパーティに出席する予定を急遽キャンセルして、私に付き添うことにした。検査の前夜、私たちはお互いに寝たふりをしながらいつまでも目を覚ましていた。癌の再発・癌の再発・・・というフレーズが、ループのようにいつまでも頭の中をかけめぐった。

骨スキャンは、骨に注射をして、癌のあるところ(ホットスポット)を発光させるものだった。
私が待合室にいる時、一人の女性がやってきて、私の本について話した。ノースカロライナに戻ってから書き始めた手記は、癌の治療が終了したところまでが出版されていた。
その本の読者にとっては、私は癌との闘いに勝った者として、希望を与える存在となっていただろう。私は過去半年の日々を思い返した。
出版記念サイン会で、しばらく人前に出なかった私は、大勢の人を見て気おくれしたが、ジョンに励まされ、話をすることが出来たこと。
私と同じように息子を亡くし、癌と闘病中の女性から届いたお見舞いの手紙を本の中で紹介したが、その女性がサイン会に来て「あなたの本をランダムに開いたら、そのページp319に私のことが書いてありました」と言ったこと・・・

 

February 23, 2010

p.345 〜 p.354

出版記念サイン会は、ローリーで私がいつも利用する書店クエイル・リッジで行われたが、客一人一人に対して、本にサインして渡すだけでは終わらず、つい話し込んでしまうので、書店主のナンシー・オルソンは私が時間をかけ過ぎないように見張っていた。
しかし、彼女がちょっと席をはずすやいなや、私は目の前の人の抱える問題が自分自身のことのように感じられ、サインだけでなく長々と書きこんでしまうのだった。
地元以外の場所でのサイン会はもっと大変だった。結局飛行機の時間までにサインは終わらず、アトランタまで車を走らせてもらい午前1時過ぎにホテルに到着した。深夜、雨の中だったにもかかわらず、私は疲れも感じずに車の中で選挙運動の時と同様、スタッフたちと歌を歌いまくっていた。

どこに行ってもこのような人々とのコネクションが待っていた。私と会うためにわざわざ美容院へ行っておめかしして、昔の写真も持ってきてくれた叔母の高校時代の友人・ノースカロライナ大学時代のバスケットボールチームメイトたち・座間の高校時代の友人たちなど、皆が私の本の出版を祝ってかけつけてくれた。
デモインでは、癌が判明したときにヘアスタイルが気に入らないのかと誤解させて泣かせてしまった美容師が、家族一同を引き連れて再会に来てくれて、私は再び大泣きだった。
一人の女性が「私も息子を亡くしているんです」と私の耳元でささやいた。私はその息子の「思い出に」とサインしようとして息子の名を聞くと、彼女はパニックのようになって数歩下がり、息子の名を口にすることが出来ないと言った。私はその気持ちが痛いほど理解できた。

そして今、私はジョンと共に、骨スキャンの結果を待ちながら、ここ病院の待合室にいた。
看護師に案内されてスキャン室に行く途中、他の患者たちを見ながら、私は同じ崖のふちに立つ人々がこれだけいると思った。
患者たちの中には、ジョンが誰であるかに気がつき、選挙運動中のジョンの保険制度への関わりなども知っていて、ここで会ったことを吉兆と思ってくれる人々もいるようだった。
放射線検査の後、生体検査とCTスキャンを受けた。不安にさいなまれ、検査の結果を早く知りたいと焦る私をジョンは優しく抱いて落ち着かせてくれた。
私たちは結婚してからの30年に余る越し方に思いを巡らせた。「長い旅だったわね」と私が言うと、ジョンは「まだ旅は終わっていないよ」と答えた。そして、この夏の結婚記念日が来たら"Will you marry me again?"と尋ねた。
「そしてまた30年も?」と私はふざけたように言ったけれど、もちろん私の答はYesに決まっていた。

 

March 2, 2010

p.354 〜 p.360

CTスキャンの結果はなかなか知らされず、私はいらだっていた。看護師のジョアンが、長くかかるのは結果が悪いからではなく、単に医師たちが慎重に調べているからだと何度も言ったが、私はますます不安になるばかりだった。
ついに腫瘍専門医のリサ・ケイリーが入ってきて、すべてのスキャンを詳細に調べた結果、肺にいくつかの小さな点が見つかったと言った。これらは癌かもしれないし、癌とは関係のない良性のものかもしれない。誰の肺にも何かしら点のようなものは見つかることが多いと、丁寧に説明をしてくれた。それでもなお、私の頭の中には警報が鳴り続け、ギロチンがいつ頭に落ちてくるかわからないような不安は消えなかった。転移した癌が今後、身体のどこにどのように出てくるかということは、専門医であっても、正確に予測することは不可能なのだ。
それでも、少なくとも、現時点での死刑宣告は免れたのだと私は自分に言い聞かせた。
私はジョンのほうを向いて言った。「子供たちに会いたいわ。そして貴方はキャンペーンを続けて。」
ジョンはケイリー医師に尋ねた。「エリザベスには選挙キャンペーンは無理ではないでしょうか? 身体に悪影響があるのでは?」
医師はすぐに「大丈夫、悪影響はありません」と答え、私のほうを見て「キャンペーンをするべきではないと言ってほしい?」と悪戯っぽく笑って聞いた。私は「いいえ、私もキャンペーンを続けたいの」と答え、私たちは皆お互いに抱き合った。

ジョンの大統領選出馬表明のための記者会見は、早いほどよいだろうということになった。この前の選挙で家族同様になったスタッフたちには、ニュースとして知られる前に、是非とも私たちから直接に出馬の決心を伝えたかった。
会見は、私たちが結婚式の時にパーティを行ったカロライナ・インで行われた。もともと癌のことも世間に隠すつもりはなかったが、リサ・ケイリー医師も出席した記者会見は、大きな波紋を呼び起こした。しかし私たちは、メディアの騒ぎには巻き込まれず私たちなりの生活をこれからも続けていくつもりだった。

 

March 9, 2010

p.360 〜 p.368

私の物語も、ようやく最後になる。私自身の歴史というものは、私がこれまでに読んできた本のどれよりも、より広い世界を理解させてくれたようだ。
癌になって初めてわかったことは、ある意味癌が与えてくれた贈り物なのかもしれない。
生命に限りのあることを知って初めてわかる生命ある日々の素晴らしさ。それは健康に恵まれた生活と引き換えにしても余りあるものだ。
私がこの世を去ったあとは、私の子供たちが人生で出会う苦闘から、私が子供たちを守ってあげることは出来ない。しかし子供たちは、私がいなくなっても、私が言い続けてきた「どんな苦労があっても、そのために人生の意味を見失うことはない」ということを胸に刻んで困難と闘っていくだろう。
ジョンという、神によって与えられた素晴らしい伴侶と共に、この物語は終わっても私たちの人生はまだ続いていく。
ウェイドの柩におさめた私からの手紙は、"You Know"という一言だけだったが、私を支え励まし続けてくれた全ての人々にも、私は"You Know"と言おう。

-- The End --


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