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  Kino
     by Haruki Murakami

        

             by Haruki Murakami
               The New Yorker
     (Feb.23 & March 2, 2015 Issue)
        Translated by Philip Gabriel

Feb. 2015 〜 Apr. 2015

あらすじ

木野はバーを経営し、ひとりで店を切り盛りしている。ある日、30代前半の眼光の鋭い、坊主頭の男が客として現れる。最初はその筋の人間かと警戒したが、読書をしながら静かに酒を嗜むその男は、常連客になった。

木野はかつてスポーツ用品を販売する会社に勤めていたが、一番親しい同僚が自分の妻と関係をもっていることがわかって会社を辞めた。予定より一日早く出張から自宅に戻った時、妻とその男がベッドにいる場面に遭遇したのだ。木野は何も言わず寝室のドアを閉めるとそのまま家を出て、翌日退職届を出した。彼はそのとき39歳、妻は35歳だった。

木野には小さい時から可愛がってくれた伯母がいた。会社を辞めた木野は、以前彼女が喫茶店を経営していた根津美術館裏の一軒家を借り、1階をバーに、2階を住居にした。バー「木野」は古い時代のジャズがアナログレコードで流れる居心地の良い空間となったが、さしたる宣伝もしなかったので、始めの一週間は客がひとりも来なかった。灰色の野良猫が最初の常連となると、少しずつではあるが客が訪れるようになり、家賃を払えるぐらいにはなった。

ある小雨の晩、カウンターで常連の坊主頭の男が本を読んでいると、スーツ姿の二人連れの男が入ってきた。二人は持ち込みのワインを飲みながら大声で口論を始める。木野が声を落としてほしいと頼むと、彼らはまるで予め示し合わせていたように木野に向かって悪態をつき始めた。そこに割って入った坊主頭の男は「カミタ」と名乗り、表に出て片を付ける前に勘定を済ませておこうと提案した。
三人が外に出ると猫もついて行った。外はしんとして物音ひとつ聞こえない。十分が経つとカミタがひとりで中に入ってきた。彼は「あの男たちは二度と顔をみせないし、木野に迷惑をかけることもないでしょう」と言うと、何があったのかという木野の問いには答えず、席に戻って本の続きを読み始めた。
カミタが帰った後、木野は近所をひとまわりしてみたが、格闘したような跡はなく、結局3人の間で何があったのかは謎のままだった。

それから一週間後、木野は客の女と寝た。30歳ぐらいの独特の雰囲気のある女で、以前から同年代の男と店に来ていた。カウンターが定席の二人の酒の飲み方はベッドでの営みを連想させるものがあった。
彼女はときどき木野にジャズの話をしてきたが、連れの男が自分に向ける冷たい視線に気づいてからは、彼女とあまり関わり合いにならないよう注意していた。

その晩、ひとりで店を訪れた女は時間をかけてブランデーを三杯飲んだ後、木野に見てほしいものがあるといって、背中を見せた。そこには幾つかの小さな痣のようなものがあった。それが煙草の火の跡と知り、言葉を失う木野に、女はもっと見せづらいところにもあると告げた。

木野は本能的にこの女に深入りしてはならないとわかってはいたが、女の目から放たれた欲望の強さには抗えなかった。木野は戸締りをすると、女と一緒に階段を上がり、何度も激しく交わった。

その後も女は客として何度か店を訪れた。いつもの顎ヒゲの男と一緒だった。女と雑談を交わす木野を、男は子細に観察していた。木野には、この二人が彼らにしか理解できない重い秘密をひっそりと分け合っているように思えた。

離婚が成立した時、木野と妻は顔を合わせた。妻は浮気の現場を見せてしまったことで木野を傷つけたことを詫び、木野はその謝罪を受け入れた。「私たちは最初からボタンの掛け違いがあった」という妻の言葉から、木野は妻の背中でタバコの火傷の跡が動き回る様子を想像した。

秋がやってきて、まず店のお守りがわりだった猫が姿を消した。それから店のまわりで蛇を見かけるようになった。気味が悪くなった木野は大家である伊豆の伯母に電話をかけた。
伯母は長年その辺りに住んでいたが、蛇を見た覚えはないと言い、
 ― 蛇は賢い動物で、古代神話の中ではよく人を導く役を果たしている。しかしそれが良い方向なのか、悪い方向なのかは行ってみるまでわからない。多くの場合、蛇は善と同時に悪でもある両義的(ambiguous)な生き物だ ―
と、先日テレビで見たというどこかの先生の話を聞かせてくれた。

ある夜カミタが姿を見せ、残念だが店を閉めるように言った。状況が理解できない木野に、カミタは言う。
― この店は多くのものが欠けてしまった。それは木野が何か間違ったことをしたわけではなく、正しいことをしなかった結果で、その空白を抜け道に利用するものもいる。そのことをよく考えてほしい ―

そして、カミタは木野に、次の長雨の前に長い旅行に出て、できるだけ頻繁に移動し、週に2度、伊豆の伯母に宛先だけを書いた絵葉書を送るように言った。カミタが伯母の知り合いであったことに、木野は驚くが、その夜のうちに荷物をまとめた。木野はカミタの口にする言葉に論理を超えた説得力を感じていた。

木野は会社員時代に営業で回ったコースをそのまま辿ることに決め、翌朝、高速バスに乗って高松に行った。ビジネスホテルに泊まり伯母宛に絵葉書を出した。「そのことをよく考えてほしい」とカミタは
言ったが、何が問題なのか木野には理解できなかった。

それは熊本の3泊目だった。カミタに言われたとおりに伯母宛に宛先だけの絵葉書を送るつもりが、衝動的に近況を知らせる文章を書きポストに投函していた。どこかで現実と結びついていなくてはならない、そうしないと自分が自分でなくなってしまうという思いに抗えなかった。

その晩、誰かが部屋のドアをノックしている音で目が覚めた。木野は両手を耳で塞ぎ、自分の世界に逃げ込もうとしたが、そのノックはドアではなく、自分の心の扉を叩いていることに気が付いていた。生きている限りそのノックの音は彼を追い詰めるだろうということも。

記憶は何かの助けになるというカミタの言葉を思い出し、木野はバーの前庭の古い柳や灰色の雌猫、カウンターで熱心に本を読むカミタや妻のことを思い浮かべた。今度は窓から聞こえてくるノックの音を聞きながら、誰かの温かい手が自分の手に重ねられようとしていた。彼は長い間忘れていた、その肌の温もりと柔らかな厚みを思い、自分は深く傷ついていると涙を流した。


コメント

「木野」は2014年2月の文芸春秋に発表されました。翻訳はアリゾナ大学教授Philip Gabrielです。村上氏自身が、国分寺と千駄ヶ谷でお酒も出すジャズ喫茶を経営していたこともあり、舞台であるジャズバー「木野」の描写からは、店内に響くグラスの氷の音や、抑えたジャズの音色が聞こえてくるようです。反面、内容はミステリアスでいろいろな解釈を呼ぶ内容ですね。作者の前書きにも、本作より後に書いた作品が先に雑誌掲載された理由として「『木野』の推敲に思いのほか時間がかかったこともある。これは僕にとっては仕上げるのがとてもむずかしい小説だった。何度も何度も細かく書き直した。ほかのものはだいたいすらすらと書けたのだけど」とあります。また、村上氏は本作をとても気に入っていて、どこかのインタビューでその後の木野を書いてみたいという発言があったと記憶しています。今度は長編の主人公として登場するかもしれませんね。

 (☆)

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