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Shinagawa Monkey

      by Haruki Murakami

新潮社
東京奇譚集
December 11, 2008 (P18〜Last)
坂木の夫と同僚の桜田に引き合わされたのは一匹の猿だった。 「名札を猿に取られたくない」と言い残した優子にはこのことが分かっていたのだ。 みずきは背筋が寒くなった。

みずきは、猿が人間の言葉で謝罪し始めるのを聞いて唖然とした。 猿は「自分は心を惹かれる人の名前を盗まずにはいられない病を患っており、とりわけ松中優子には恋い焦がれていたので何としても彼女の名札を手に入れたかった。 やっと優子の名札を見つけたとき、みずきの名前にも心を揺さぶられ、いけないとは知りつつもみずきの名札も持ち去ってしまった。」と言って心底すまなそうに謝った。

下水道を住み家にしていたという猿をどうやって見つけたのか、とみずきが尋ねると、坂木は、面談を重ねていく中で名前を盗む何か人間ではない生き物が地下のどこかに身を潜めていることがわかったと答えた。  腑に落ちない様子のみずきに、坂木の夫は、「妻は普通の人にはない特別な能力が備わっている。 自分はその不思議なことを結婚以来何度も目にしてきた。」と援護した。

猿の処分を巡り、桜田から「殺してしまおう」という案がでると、猿は深く頭を下げ命乞いをした。 そして人から名前を盗むときは、名前に付帯するネガティブな要素ごと奪うので、もし自分が松中優子の名札を寮から盗むことに成功していたら、彼女の心の闇も取り去ることになり彼女は自殺せずに済んだかもしれないと語った。

話を聞いたみずきは、猿に向かって、自分の名前にはどんなネガティブな要素があるのか話してくれたら命を助けるように頼んであげると持ちかけた。  坂木の夫も二度と東京に戻って来ない条件で山に放すことに同意した。

猿は逡巡のすえ話しだした。  みずきの母親と姉はみずきを一度も愛したことがなく、彼女を横浜の学校に厄介払いした。 父親はみずきを守るには性格が弱すぎた。 みずきは誰からも十分に愛されない現実から目をそらし、負の感情の感情を押し殺して生きてきた。 そういう防御的な生き方が彼女の一部分となり、そのせいで彼女自身も人を無条件で心から愛することができなくなってしまった。 今は幸せな結婚生活を送っているように見えるが、本当は夫を深く愛しておらず、子供を持ってもそれは同じかもしれない。

みずきは、猿の言葉を聞いて体中がバラバラになってしまいそうな気がしたが、「もう我慢出ない」と憤る桜田を遮って約束どおり猿を助けてくれるように頼んだ。 

別れの時、みずきは松中優子の名札を猿に渡し、もう盗みはしないようにと諭した。 そしてなぜ優子が自分に名札を預けたのか尋ねてみたが、猿にもその答えはわからなかった。

猿は自分の話がみずきを傷つけたのではないかと気遣ったが、いずれは正面から向合わなければならないと思っていたという返答に胸をなでおろし、最後に命を助けてくれたことを重ねて感謝した。 

来週の面談はどうするかという坂木に、みずきは問題は全部解決したと告げ、坂木の尽力に大いに感謝した。 「猿が話したことは自分で対処すべきと問題で、時間をかけて考えていこうと思っている」と語るみずきに、 坂木は「全力を傾ければ、あなたはきっと強くなれる」と声援を送り、二人は握手をして別れた。

家に戻ったみずきは自分の名札と、名前入りのブレスレットを封筒に入れ、押入れのダンボール箱にしまった。 物事がうまく運ぶかどうかは分からないが、とにかくみずきは自分の名前を取り戻したのだ。
November 27, 2008 (P11〜P18)
松中優子は何の前触れもなく、みずきがいままで嫉妬の感情を経験したことがあるかを尋ねてきた。 唐突な質問に戸惑ったみずきは、具体例を挙げてもらった後に、自分には経験がないと答えた。 優子自身はどうなのかと問うと「たくさんある」という答えが返ってきた。すべてにおいて恵まれている彼女がこれ以上何を望むのだろうと、みずきはひどく驚いた。

例えば何に嫉妬するのかと聞くと、優子は、例を挙げても意味のないことだからと返答を避け、みずきに前からこの質問をしたかったと言った。 みずきは優子の意図が分からなかったが、できるだけ正直に答えた。「自分は自信に満ちあふれているわけでもないし、欲しいものがすべて手に入っているわけでもない。 むしろ不満なことがたくさんあるけれど、だからといって他人を羨ましいと思うことはいままでなかったと思う。」

優子はそれに対し「嫉妬の感情というのは、恵まれているかどうかという客観的な状況とは関係なく生まれるもので、いったん生まれてしまうと、まるで腫瘍のように大きくなっていく。 それは分かっていても押しとどめようがない」と語り「嫉妬の感情と生きていくのは楽ではない。まるで小さな地獄を抱えているようなものだ。」と説明した。

そして優子は、親戚の不幸で今から帰省するので、寮を留守にする間、みずきに自分の名札を預かってほしいと頼んだ。 猿に取られたくないからと言い残し、優子は部屋を去っていった。

優子はそれきり寮に戻って来なかった。 親戚に不幸があったというのは嘘で、翌週の週末に遺体が見つかった。 森の中で手首を切っての自殺だった。 遺書は見つからず、誰も彼女が死を選んだ動機が分からなかった。

みずきは、カウンセラーに、彼女の名札は今も自宅に置いてあると言った。「捨てる気になれなかったのは、優子は自分に名札を、ずっと持っていてもらいたかったのかもしれないと思ったから。 それでも相手が自分である理由は、未だに見当もつかない。」と語った。

「あなたの中に、何か彼女を引きつけるものがあったのかもしれない。」坂木はそう言うと、みずきに対し本当に嫉妬の感情を経験したことがないのかを尋ねた。 みずきは、「ない」と答え、人の人生はそれぞれだから、と付け加えた。

自宅に帰るとみずきは、押入れから古い段ボール箱を引っ張り出して、優子の名札を探した。 しかし、おかしなことに優子の名札は一緒にしまっておいた自分自身の名札と共に消えていた。 

みずきはカウンセリングに通っていることを夫に黙っていた。 隠すつもりはなかったが、夫に迷惑をかけているわけではないのでわざわざ説明する必要もないと考えていた。 また二人の名札が消えたことも、カウンセリング上、特別に意味があると思わなかったので坂木には話さなかった。

9回目の面談終了前に、坂木が「来週、名前忘れの具体的な原因を特定して、実際に見せてあげられるかもしれない」と切り出してきた。突然のことにみずきは驚くが、翌週、坂木は約束通りに原因を見つけたと告げ、カバンから何かを取り出して机の上に置いた。

それは松中優子と自分の名札だった。 驚がくのあまり声も出ないみずきに、坂木は、彼女の名前忘れはこの名札が盗まれたせいだと説明し、土木課に勤める夫と同僚が犯人を捕まえたので、これから会いに行こうと言った。
November 13, 2008 (P6〜P11)
みずきの話を聞いた坂木は、まず名前入のりブレスレットをつけるという現実的な対応を褒めた。 そして名前忘れを前兆にもつ重大な病気はないが、今後症状が進む可能性があるので、今のうちに原因を突き止めていこうと言った。

カウンセリングはみずきへの質問から始まった。 結婚して何年になるか、仕事は何をしてるか、などとといった現在のことから、子供時代の様々なこと、家族構成についてなど、みずきはできるだけ丁寧に答えていった。

みずきはごく普通の中流家庭で育った。真面目なサラリーマンの父と、少々口煩い母、優等生の姉と自分の四人家族。 彼女自身も取り立てて目立つところのない普通の子供だった。 家族とは今まで大きな諍いをしたことはなく、良好な関係を維持していると思っていた。 結婚生活に関しても特に問題は感じていなかった。

みずきは改めて、自分の人生にドラマチックな部分な微塵もないことに感心し、坂木に対して申し訳ない気分になった。 しかし坂木は終始みずきの話に熱心に耳を傾けてくれたので、面談の最後にみずきは肩の荷が軽くなったような気がした。

「名前に関する記憶ならなんでもいいから話してほしい」と2度目の面談で坂木に言われた時、みずきはしばらく考えた後に、学生時代の“名札”の思い出を話し出した。

みずきの家は名古屋だったが、中学から高校にかけて横浜の私立女子校に在籍した。 そこは母親の母校で、彼女は娘の一人はそこに入れたいと望んでいた。 姉は体が弱かったので地元の中学に進んだが、みずきは親元を離れてみたいという気持ちがあったので親の申し出を受け入れた。

みずきは学校の寮に入り、高等部の3年生になると一人部屋になった。

寮生は一人づつ自分の名札を持っていた。表は黒い字、裏は赤い字で名前が書いてあり、寮の玄関のボードに在宅なら表を、外出の際は裏を出して掛けておくように決められていた。

ある日、みずきの部屋に松中優子という2年生が訪ねてきた。 寮生の中で一番きれいな子で、実家は金沢の有名旅館。 成績も優秀で、かなり目立つ存在だったが、気取ったところはなかった。 むしろ大人しくて、気持ちをあまり外に出さないので、何を考えているのか分からないところがあった。 後輩から憧れられても、親しい友達はいなかったように思えた。
October 23, 2008 (P1〜P6)
自動車の販売店に勤める安藤みずきは自分の名前が思い出せない。 とっさに名前を尋ねられると、まるで脳の回路がショートしたようになってしまう。 しかし自分から名乗るか、聞かれることが前もって分かっている時には何の問題もない。

この症状は2年前に結婚したときからだが、最近は頻度が増えてきて彼女を不安にさせている。 みずきは名前入りのブレスレットを買い求め、外出の際には必ずつけるようにした。

みずきはこの件を夫に話していない。 彼が「 原因はみずきが結婚生活に不満を抱いているからだ 」と的外れなことを言い出すのは目に見えているし、論理的で弁の立つ夫が一度言い出したことは容易に引っ込めないことも分かっていた。 実際、夫婦仲は悪くないし夫に対しては何の不満もなかった。

名前忘れが重大な病気の前兆かもしれないと病院に行くが、真剣に取り合ってもらえなかった。 ある日、みずきは自宅のある品川区の広報誌に、専門カウンセラーが格安の料金で個人面談をしてくれるという記事を見つけ、思い切って受けてみることにする。

カウンセラーの坂木哲子は40歳代後半の親しみやすい女性だった。 自分の夫が区役所勤務という関係で、区の援助を受けて相談室を開くことができ、みずきが最初の患者だと言った。
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